岩城社長が退任後8年となる。退任後記録の残っている年(2002年)から調べてみたら、受け入れた工場見学回数は、215回となり3,040名もの方々とお会いした事となっている。
様々な方々からご意見やビックリするような質問をお受けし、大いに鍛えられたと感謝しています。
会社にとっても私にとっても大きな財産である。
こんな片田舎のちっぽけな会社にお見えなる会社は、その数百倍の規模である。恐れ多い事でもあるが、悪い気はしない、が、そのメンバーの何人かのひそひそ声が我々にとっての最大のプレッシャー、そして大きな歯止めとなっている。
「岩城先生のつくり上げられた会社・工場だそうよ!!」この言葉はキツイ。そして、これは日々の活動の原動力でもある。
話は十数年前に遡り、先生の過去を良い事悪い事も含めてご披露してみましょう。
その1 【今すべき事】
朝7:30 私が出社する前にはすでに部屋の中で素振りのポーズをとっている。
「トップの位置どうかね?」
「やや左、少し浅い感じが」
「そうか分かったこの位かなあ?」
「いいと思いますが」
「ところで製造1課のBライン先頭の○○がおかしいよ」
トップの位置を再度やりながら話は突然ふられてくる。それは極めて具体的である。まるで今見てきたような口ぶりである。
暫くして軍手をもって現場へ、そしてお昼まで戻ってこない。午後も同様である。現場で一人で改善をやっている。
「社長ともあろうものが何で清掃や、アングル加工したり改善しているの? 社長の仕事をしたらどうなの」凡人には理解できない事を始められると外野は常にうるさいものである。
「製造会社で製造体質を強くする事以上に大事な活動はあるの?」
逆質問に答えられるほどのものを外野は持っていない。我々がTPSを再構築しようとしていた最初の頃である。
その2 【教える行動】
重要なみずすましかんばん車の1名が、どうにも覚えが悪くてミスばかりで手を焼いていた。課長も部長も少しの訓練の後お手上げとなってしまう。
「君たちができないなら僕がやろう」60歳を超えてはいたが、約1週間、2階への上がり下がり24回/日、20分間隔で担当者にぴったりついて「回るルートはこのように、積む順番はこのように」手取り足取りの実施訓練を行う。こいつはダメだという前にここまでやった課長も部長もいない。
その3 【教える事で教えられる事】
ある結婚式場待合室で数年前定年退職したA子さん:「岩城社長ご無沙汰しています。私は20年前に当時花形と言われていたQS-8組立ラインにいました。しかし左利きでものすごく不器用で皆の足手まといになっていました。上司もさじを投げた時、岩城さんは本当に手取り足取りと真剣に教えてくれました。お陰で何とか皆とやっていけました。20年経った今でもそのことは本当に感謝しています」
「そんな事はないよA子さん、貴女のような人をどうやったらうまく指導できるのか、色んな事を学ばせてもらったよ、お礼を言いたいのは僕のほうだよ」
それを聞いたA子さんの目はウルウル、ウルウル。
その4 【成長する権利】
ある時ひかり学園生(近隣の知的障害施設からの実習生)が指示された仕事が終了し、手待ち状態でブラブラしていた。学園園長からは「ひとつの仕事以外は指示しないように、また指示者はひとりに限定してください、重なると彼らはパニックになりますので」とのことから空いた時はブラブラしていていいよとしていた。
が、その姿を見た岩城社長:「君そんなことはあるのか、誰だって成長する権利はあるのだ、君達がそうしないだけではないか、第一やってみたのか?」即刻担当課長が1ルートのみの、みずすましかんばん車ではあったが、1ヶ月つきっきりで指導する。その彼は今ではひとりで正確なかんばん車運行をしている。その後長野ジェコー実習の学園生だけが、長野市では初めての一般住宅で共同生活を送れるようになり、既に20年の永年勤続になろうとしている。
(つづく)
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