“働くことを忘れた人々”
最近、「歌を忘れたカナリヤ」ではなく「働くことを忘れた人々」のあまりにも多いのには驚く。特に仕事の現場を離れた、所謂支配階級またはエリートを自認する人達の退廃は特に深刻である。
先日山形県に所在する電気製品を生産する工場で、生産関係者のある団体の見学会が行われたそうだ。その時の出席者の感想を、私は耳にすることが出来た。その感想は、“とにかく物凄い”“良くあんなに働いて体がもつものだ”“あれはまさに労働強化ではないか”“俺は、あんな生産現場作業員でなくて良かった”と言った類のものであった。
私は、その山形の工場の様子は良く知っており、またそこで猛烈に働いている人々は、私のとってはかけがえのない友人達である。私は彼等に対する見学者達の感想を聞き、逆に見学者達に対し“なんと哀れな、こころ貧しい人達だろう”と悲しく思った。
恐らく見学者の大多数は、エリート階級を自認する人々であろう。しかし、彼等の多くが、“本当に働く”ことを経験していないのであろう。目の前で必死に働いている人々を目の前にしながら、そこから何も感じ取ることが出来ないでいる。私は彼等の中にいるとき、常に彼等から感動と勇気をもらい、彼等に対し限りない尊敬と畏敬さえ感じる。
彼等はあの厳しい速い動きを、お互いにタイミング良く連携させながら、見事なチームプレイを演じている。その連携の中で、お互いの動きに自らを対象化しながら、人格の形成を図っている。彼等はまさにその道のプロフェッショナルであり、強い自信と、他人に対する深い思いやりや強い忍耐力等、人間としての優れた素養を身に付けた人達である。
周りから見ると、何も頭を使うことなく、唯ひたすら体を動かしている、あの単純な組み立て動作の中で、それをより確実に速く、そしてより美しく完璧に完成していくことに、彼等は生き甲斐を感じ、自らの人格の形成を図っているのである。
現在の、先ず“学歴、肩書き”ありきの一般的な風潮に甘んじて、雑学的知識の修得に終始し、行動しない、または行動出来ない人々が沢山いる。彼等は、彼等に都合の良い社会環境を求め、またそれを造っていく。しかし、それらは所詮自らの殻を守り維持することを越えることは出来ない。
人間が地球環境やいろいろな変化の中で生きていくということは、自らの殻を越え、常に新たな変化を自らに求めていくことであろう。そのことが成長であり、またそのことは、自分以外の外部の物に全力をあげて働きかけてこそ、可能であろう。重要なことは、知識や雑学の多少ではなく、今自らが直面している課題に、どれだけ真剣に取り組むことができるかの、行動力の有無である。
人間が行動すること、即ち自らが働く能力こそ、人々が社会に適合していく上で最も大切なことである。そのことがあってこそ、それに必要な知識が顕在化し、また行動することの中から貴重な知識を得ることができる。
本来自らが働くことを性向することが出来ない人々は、如何に多くの知識をもち、またどのような経歴を持っていても、結局それだけのものであり、社会にとってもまた本人とっても、自分の今日までの歩みを、充足感や感動をもって、省みることは出来ないであろう。
山形の生産ラインで働いている人々は、現在の世において、人間にとって本気で働くことの重要さを、改めて我々に提示してくれている。私は、彼等の限りない挑戦を、心から支援し期待して止まない。
以上
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